ひ に く ぜ り ー
ひ に く 100 ぱ ー せ ん と の ぜ り ー は い か が ?

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<< BUMPと島本さんと小野Dと | main | q >>
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どう足掻いても、彼には近づけない。
声を掛けようが、隣に並ぼうが、手をつなごうが、絶対彼自身には触れられない。

薄くて頑丈なフィルターに包まれていて、いつだって彼はそれ越しに私たちを見詰めている。
フィルターはとっても薄くて、今にも千切れそうなのに、その膜に小さく穴を開けることさえも許されない。
もしかしたら触れることさえ許されないかもしれない。

彼のあの膜が剥がれるのは彼女の前でだけ。
膜の中に進入できるのも、気軽に穴を開けられるのも、彼女だけ。

ずぶずぶと嫉妬は私を吸い込む。



「杣野君、今度の調理実習、何作るの?」

彼の隣の席を獲得してから、4日たった今、初めて彼に声を掛けることができた。
下唇を噛んで少し考え込む彼の姿を、
教室の窓際の一番後ろに座っている私が独占しているのかと思うと心が弾む。

「あ、宮沢さんまだ決めてなかったんだ」

彼が私の手元の調理ノートを覗き込んだ。
この学校の調理実習では、
ノートの裏の一覧表にある数種類の料理の中からいくつか選び、
決められた時間内でそれを作らなければならないのだが、
限られた数しかない一覧表の料理はもう全て作ってしまい、今更作りたいものなどなくて決め損ねていた。

彼は身を乗り出して、私の字で書かれた前回の調理実習で作った麻婆豆腐と鶏肉のサラダの作り方や完成図や感想を見詰める
あの時できた麻婆豆腐は最高に上手に作れたのに、私の図ではそのことを微塵にも伝えられない。

恥ずかしい。

「宮沢さんのレシピ、細かいね。わかりやすい」
「ありがとう」

「一覧表の料理、全部作っちゃったんでしょ? それなら、もう載っていない料理作っても良いと思うけど」
「うん、そう思ったんだけど、でも何を作れば良いのか分かんなくて」
「グラタンは? 寒くなってきたから良いと思うよ」

彼が私のために提案してくれた料理を、私が作らないはずはなく、それ良いね。と呟いて調理ノートに書き込んだ。
堪えているのについ口元が緩む。

「そういえば杣野君は何を作るの?」

最初の質問を再び投げかける。
今までちょっとした会話しかしたことがなく、
おまけに今日初めて私から声を掛けたというのに私の舌はするする言葉を滑らせる。

喋り過ぎな自分が気持ち悪かった。

「オムライス」

そう答えた彼と目が合う。彼の瞳に自分が映っているのを確認した。
途端に恥ずかしくなる。

あんなにも彼の瞳に私が映れば、と願ったのに実際映るとなると自分が惨めで堪らない。
滑稽だ。私。

そう気づいて、目を合わせられる筈がなく、私はじいっと自分のつま先を見つめた。

「オ、オムライスって結構難しいよね。たまごを破っちゃいそうになる。」

びゅうっと背後から強い風が吹いて私の首筋を撫ぜる。
あまりの風の冷たさに驚いて、一瞬だけ身を乗り出した。

乗り出したおかげで、少しだけ詰まった距離に居る彼から仄かな香りがして息が詰まった。
もう駄目だ。そう思って調理ノートの提出を理由にその場で話を打ち切った。


「グラタンは一覧表に載っていなかったと思うけど?」

てっきりそう問われるかと思って、答えを用意していたのにそんな必要はまったくなかった。
家庭科を担当する担任は、ノートにちらりと目を通して、
「うん。」の一言で済ませてしまった。

教室に戻ってあの席に着くのはまだ少し億劫で、
職員室の近くをうろうろ歩いていると突然肩を叩かれた。

「宮沢ー、探したよっ。あのさ、今日さ、ラーメン食べに行かない?」

その誘いにはじめは断ろうかと思ったものの、
窓を殴っている外の風の音が私の腹部を撫ぜて気が変わった。

「良いね、行こう」
「やった。あたし日直だからさ、先行って注文しててよ。味噌ラーメンね!」
「分かった」

そう約束を交わしながら教室に戻ると、彼は私の隣ではなく廊下に居る彼女の隣に居た。
二人でノートを見ながら何やら話し込んでいる。

彼らの放つ親密な空気は廊下に居るにも関らず、教室中を包み込んでいて涙が溢れそうになった。

湯気が充満している店内は、唯でさえ空いている私の腹を摩った。
熱を失っていた手足は段々と熱を帯びてくる。

やっぱり、昼食を減らすのはやめにしよう。逆効果だ。

そう思いながら空いた席を探していると、見覚えのありすぎる姿が目に飛び込んだ。
見なかった振りをして遠ざかろうかと思ったものの、
狭い店内で同じ制服を着た彼女に見つけられるのも
どうせ時間の問題だと開き直って声を掛けた。

「こんにちは」「あ、こんにちは」

彼女は軽く頭を下げた。
長い髪の毛がさらさらと頬を撫ぜている。かっと頭に血がのぼるのが分かった。
なんでこんなにも彼女は私の欲しいものばかりを持っているのだろう。

「ひとり?」「ううん、雪ちゃんが後で来る。金澤さんは?」
「私はひとり。
 私の友達は皆、ファミレスなら行くくせにラーメン屋は嫌って言うんだよ。可笑しいよね」

本気で腹を立てている様子の彼女に思わず目が細まる。
けれどすぐに汚い感情が私の中を蠢いて、毒づいた口調で「彼は?」と尋ねてしまった。

首を傾げる彼女に「杣野君は?」と浴びせるように発した。

「さすがに私にだって羞恥心はあるよ。ずるずる啜ってるところなんて見せれない」

そう笑ったくせに、ラーメンを注文した直後に来た友人に誘われて、
同じテーブルで麺を啜るいつもと変わらず彼女は上品だった。

隣に座る彼女はこんなにラーメン臭い中に居るにも関らず、洗剤の香りがした。
彼と、そして私と同じ洗剤の匂いが。

少し汗ばんだ体は店内から出ると急激に冷えた。
熱はすぐさまさらさらと風に流されて、外の空気に溶け込んでしまう。

少しでも熱を捕まえておこうと、カーディガンのポケットに手を突っ込んだ。
私より遥かに短いスカートの裾を友人は寒そうに押さえている。

彼女はそんな私たちを見てけらけら笑い、マフラーを私に、友人に手袋を貸してくれた。
そして、本屋に用があると言って、手を振りそのまま行ってしまった。

「似てるね。金澤さんと宮沢。」

突然の友人の言葉に、急いで振り向く。
タイミング良く強風が吹いて、顔面に当たった。前髪が吹き飛ばされそうになる。

「なんか似てるよ。雰囲気が」
「匂いじゃない?」「は?」

洗剤が同じなんだよね、 そう言うと彼女は手袋に鼻を当てた。

「ん、わかんない。匂いじゃないんだって、なんか空気が似てる」
「へえ、そう」

友人の言葉は深く突き刺さった。
似てるだなんて。そんなこと言わないで欲しい。

確かに彼女とは趣味も合うし、彼女とは洗剤が同じだったのも偶然だ。
私の好きな本は、彼女と彼の好きな本であったりもした。
 
 
私にも、もしかしたらあの膜を破ることが出来たのかもしれない。
 
 
友人の言葉はそんな馬鹿げた期待を抱かせる。
そしてそんな期待は私を苦しめる。
どんなに趣味が合おうとも、容姿が違うんだから、私が入り込める隙間なんて無い筈なのに。
彼女だからあの膜は破れたんだろうに。

汚い感情はずっと脳みそに染み付いて離れなかった。


「宮沢さん」

チーズの入った袋の封を空けていると、三角巾を頭に巻いた彼に名前を呼ばれた。
私の視線に気づいたのか、彼は急いで三角巾を外す。

「やっぱりやめればよかった。星の刺繍はあんまりだよね」

照れたようにそう言って、彼は色とりどりの星の刺繍が施された三角巾をエプロンのポケットにつっこんだ。
愛しくて、抱きしめそうになるのをなんとか耐えた。

「どうしたの? その三角巾」
「三角巾なくしちゃって、昨日スーパーでやっと見つけたのがコレだったんだ」

私は笑った。彼もつられて笑う。
それからボウルに入った融かしたままの卵を見て、思い出したように

「オムライスのライスに具を入れたいんだけど、宮沢さんが作ったときは何にした?」

「ええっとね」調理ノートを開くと、彼がすぐ傍に立ってそれを覗き込んだ。
「あ、待って、その宮沢さんが書いたレシピ、メモして良い?」

高鳴る鼓動を少しでも大人しくさせようと、息を深く吐きながら
「あ、良いよ。このノート貸すよ」と申し出ると彼は嬉しそうに微笑んだ。

あ。時が止まるってこういうことだ。と実感する。
さっきまで後ろで騒いでいた友人たちの声も、
たまごでキャッチボールをしている男子の声も一瞬にして掻き消される。

大袈裟じゃなくって本当に。

「ありがとう」

鼓膜を擽るその声は鳥肌さえ立たせた。

「鶏肉がごろごろ入ってるの、美味しいよ。」
「あ、美味しそう。……でも鶏肉ないからなあ」

私の分の鶏肉、使う?と提案しそうになって留めた。
やり過ぎだ。ここまで彼に尽くす必要は無い。彼だって引いてしまうだろうし。

それに、後で気づいたけれど鶏肉は今日の料理には必要なくて買っていなかった。

駄目だ。彼と会話をしてから私のリズムが段々崩れていく。

気を取り直すように自分の三角巾をぎゅっと縛って、
フライパンに敷き詰めたマカロニやしめじやたまねぎやらの上に、
鮭の切り身を載せてチーズを撒いて蓋をした。

お昼に皆で分けるため、私を含む女子のほとんどは大分多めに料理を作っていた。

お皿を食器棚から取り出して、丁寧に一枚一枚磨き上げる。
そしてフォークも皿と同じように磨いていると、廊下から声を掛けられた。

彼女だ。


「宮沢さーん。もう作り終わったの?」
「うん。あれ、2組はもう授業終わったの? 早いね」

「自習だったから、早めに終わらせちゃった。1組が調理実習って聞いて、
 分けてもらえないかと思って走ってきたんだけど…… まだ皆作ってるみたいだね」

「お昼に来たら確実に何かもらえると思うよ」

と私が返事をする前に「あ」と彼女は私の背後を見て小さく呟く。
勿論その視線の先には彼が居て。
彼女は自分の視線を追う私の視線に気づいたのか、取り繕うように話を戻した。

「あ、この前クッキーをロッカーに入れててくれたでしょ。ありがとう。うれしかった」
「マフラー、本当助かったから。あの日は本当、凍傷になるかと思った」

私の言葉に彼女はからから笑う。口元を袖で隠して、上品に。
そっと近くに気配がして、振り向くと彼が居た。

彼と彼女の空気に塗れてしまう前に逃げだせれば良い。と瞬間的に思う。

「あお。どうしたの」

彼は彼女を“あおい”ではなく“あお”と呼ぶ。
漢字で書くと“蒼”だから本来の読み方としては合っているのだけれども、
彼女はその呼び方を嫌がった。
毎度名前を呼ばれる度に自分で「い」と付け足している。

今日は私が居たから遠慮したのか、それとももうどうでも良いのか、そのまま彼の問いに答えた。

「何か分けてもらえないかと思って、来ちゃった。 杣野君、何作るの?」
「オムライス。……言っておくけど一人分しか作ってないからね」

この場から逃げ出す理由をずっと考えていると、名前を呼ばれた。
「宮沢!目離し過ぎ!グラタン焦げるよ!」
「あ、はいはい」

急ぐ振りをしてその場から離れる。

ああ、助かった。フライパンの蓋を開けながらそっと、ほっと胸を撫で下ろす。
潤んだ瞳を誤魔化すように大きな欠伸をひとつしてみせると、余計泣きたくなった。

良い具合に溶けたチーズは
鮭の切り身やマカロニやしめじにしっかりと絡み付いて、美味しく、
周りからも好評だった。

調理実習の時間だけ、私は大量の優越感にどっぷり浸れる。
なかなかうまく作れず、
べろべろになってしまった友人の料理の隣に自分の料理が並んだりすると、
とてつもない興奮を覚える。

そしてそんな醜い自分を周りに悟られないように、少しだけその場を離れる。


「宮沢さん。これ、ありがとう」

彼がそう言って調理ノートを私に渡した。
頭に三角巾を縛っていた跡が残っていて可愛らしかった。

「あ、ライスの具何にしたの?」
「結局チキンライスの素入れちゃった。」

それから会話は大手へと移り、ほんの少しの時間だけ彼と共鳴することができた。
それでも膜はちっとも消える気配をみせない。

一瞬だけでも膜の剥がれ目を見つけたら逃さないのに。
そこをずっと捕まえて、彼が気を緩めているときだけこっそりとお邪魔するのに。


深い溜息を飲み込んで、友人たちの輪へ戻った。


「宮沢さん。似てるらしいよ、私と」

彼女が組んでいた腕を解くと同時に、今まで話していた雪ちゃんから目線を外した。
そして私を捉えたその視線には隠せなかった嫌悪感が滲み出ていて、
思わず目を逸らした。

「私も前言われた。……似てるかなあ」

平然を装って笑ってみる。彼女もにこりと笑った。

「うん、空気っていうか雰囲気が似てる」
「あ、分かるかも。なんか似てるよね、二人。」

なんだか妙に居心地が悪くなる。
彼女と顔を合わせて互いに苦笑いを浮かべた。

「あんたたち二人で長く話したこと無くない?」
「クラス違うし、喋る機会が無いよね」「うん」
「遊んでみなよー。」


強引に周りから薦められ、放課後何故か彼女と二人で遊ぶことになった。
といっても先日写真集を買ってしまった所為で、
私はお小遣いを使い果たしてしまっていたため何処か行き様にも行けず、
仕方なしに彼女を私の部屋に誘った。

「ココアで良かった?」
「うん、ありがとう。 ……趣味合うね、私たち」

私の本棚を眺めながら、彼女が言った。
そして私の愛読している数冊を手に取り「これ、うちにもあるよ」と微笑んだ。
眩いその笑顔に私はまた惨めになって、急いで顔を背けた。

するとタイミング良く、部屋の戸を外側から小突かれて、戸を開くと弟だった。
子機を片手に立っている。私は彼女に断りを入れてから廊下に出て戸を閉める。

「誰から?」「おっさん。多分、先生」

そう言われて億劫がりながらも電話に出るとなんと意外なことに相手は彼だった。
驚いて、返事をするどころか台所に向かって歩く弟の後姿を睨みつけることも出来ずに
ただただ子機を耳に当てたまま、
彼に不安げな声で二度ほど名前を呼ばれるまで突っ立っていた。

「ごめんね、急に電話なんかしちゃって。」

確かに弟が間違うのも無理はない、
と思うほど電話で聞く彼の声は実際より随分大人びていた。
先生たちも本当にこんな声だったら良いのに。
そしたら一言も聞き逃すまいと必死になって声を追いかけ、ノートをとるのに。

いや、もしかしたら声を追うことだけに夢中になって
それ以外は何も手につかないかもしれない。

そんなくだらない想像を膨らませている最中に
突然担任や数学教師の顔が思い浮かばれて一気に気分が悪くなった。

やっぱりある程度整った顔つきの、彼の声だと思うからこそ心地良い声だと感じるのだ。

「どうかしたの?」
「うん、あのさ。俺今日、宮沢さんに調理ノート借りて、返したでしょ」「うん」
「……でもさ、実は今手元に宮沢さんのノートがあって」

「え、うそ。ちょっと待って確認する」

私はそう言って彼女の待つ部屋の戸を開け、自分の鞄の中を漁った。
熱心に数冊の私の文庫本の表紙を見詰めていた彼女は、
そんな私を一瞥してから、また視線を本へと戻した。

「あ、本当だ」

彼の言う通り、私の鞄の中には彼のノートがあった。

「ごめんなさい。調理ノート明日提出だよね?」
「あー、そうだね」

本来なら放課後までに作った料理の感想等をつけて提出しなければならなかったのだが、
今日は先生が午後から出張だったため、ノートは明日の朝提出ということになっていた。


「持ってくるよ。宮沢さんの家って何処?」

彼の提案に思わず胸が弾んだが、近くで本を眺める彼女を見て我に返った。
沈黙を訪れさせないように言葉を濁しながら再び廊下に出て

「私も気づかなかったんだし、杣野君だけに非があるわけじゃないよ。
 何処かで待ち合わせしよう。家から一番近いお店って何処?」

問いながら、何を着ていくか考えた。
この前買った靴を履いていこう。

いや、その前に彼女をどうにかしなければならない。
彼女にはなんて言おう。

「俺が借りなければこんなことは起きなかったんだし、
 親切にしてくれた宮沢さんに非は全くないよ」

断言する彼にこっそり感動しつつも負けないようきっぱりとした声で
「ううん。貸すって言ったのは私だよ。私のお節介が原因だもん」

彼は困ったような、わざとらしい溜息をついて「意地っ張りだなあ」と受話器越しに囁いた。
そんな言葉にさえもときめいてしまう自分に我ながら呆れる。

「正直俺の自己満足っていうのもあるからね。宮沢さんは本当気遣わないで良いよ」

遠慮がちなその声に、失敗してしまった。と落胆する。
彼のためを思って言ったのに、結局彼に気を遣わせてしまった。

「ん、でも申し訳ないし」
「じゃあ宮沢さん家に一番近い建物教えてよ。其処に行く。」

これ以上彼をうんざりさせてしまうのが怖くて、私は自分の家の近くのスーパーの名前を告げた。
そして「分かった。すぐ行く、」と行った彼に
「ごめん。ちょっと今人が来てるから三十分後で良いかな?」と尋ねる。

彼はこちらに気を遣わせないやさしい言い方で勿論、と答えて電話を切った。


ほっと息をついたのも束の間に、急いで部屋に戻る。

「ごめんね、待たせちゃった」「ううん、全然。」

彼女は綺麗に首を振る。妙に後ろめたくなった。
てっきり「誰からの電話?」等と聞かれると思って覚悟していたのに
彼女は本の話題を持ってきた。

「宮沢さん、この写真家好きなの?」

首を傾げる私に彼女は「ほら、この本の表紙、みんなこの人が撮ってる。」
と言ってカバーの袖を指差した。

確かにそこには同じ名前が並んでいて、自分でも驚いた。

「その本は全部表紙に惹かれて買ったものなんだけど、気づかなかった」
「私もそういうことあるよー。CDジャケ買いしたら同じ人が描いてた絵だった、とか」

「妙に嬉しくなるよね、そういうのって」
「分かる。でも自分にしかわかんないんだよね」

妙な話題で盛り上がっていると、盗み見た時計の針は電話を切ってから12分も過ぎていて、
急いで話を打ち切った。

「もう外暗いけど、大丈夫?」

と暗に帰ることを催促すると、
彼女も私の意図を察したらしく「そうだね、帰ろうかな」と立ち上がった。

ほっとした気持ちで胸を撫で下ろす。


そして彼女を玄関まで見送った後、急いで髪を梳かして、服を着替えた。

随分伸びてきた髪の毛を結びながら彼のノートを開く。
彼の字は縦長で濃く、硬く厳しい印象を受けた。

落書きでもありそうなものなのに、ノートの四隅は全くの白紙で正直少しだけがっかりした。

綺麗に頭の上で丸まった自分の髪型に満足してから
財布と彼のノートをバッグに入れて、
最近買ったばかりのお気に入りの藍色のパンプスを履く。
さり気なさを装ったその格好は、下心など微塵にも感じさせなくて思わず笑った。

最後にまた髪の毛を整えて、急ぎながらも息が切れないよう、早歩きでスーパーまで向かう。

派手な配色の靴を履いた彼は、自販機の前でカーキ色のコートを羽織って白い息を吐いていた。
フードの周りについたファーがやたら暖かそうだ。

「ごめんなさい、待った?」

自分で言った言葉に思わずにやける。馬鹿だ。
「ううん、今来たところ」そう言って彼もにやける。二人で同時に吹きだした。

「ごめんね、きちんと確認して返せばよかった。」
「こちらこそ。受け取ったときに確認すれば良かった」

私たちは互いのノートの両端を両手で掴んで相手に手渡す。

「すごい分かりやすかった。有難う」「どういたしまして」
「料理上手だね、ノート見て感動した。」「絵が酷いでしょ?」

そういうと彼は困ったように笑った。さすがに嘘はつけないらしい。
自分でも認めるほど私の画力は酷い。


「それじゃ、私晩御飯の材料買うから」

折角出来た暖かな空気に包まれたまま離れたくて、沈黙にならないうちに店内を指差した。
すると彼も驚いたように「実は俺も買い物を頼まれてて」と少しだけ気まずそうに呟いた。

緑色のカゴを片腕にぶら下げて、二人で買い物をするのは楽しかったけれどそれ以上に気が重たかった。
安い鶏肉が買いたいのだけれど、手を伸ばすのをどうしても躊躇ってしまう。

「今日は、夕飯何にするの?」
「多分鍋かなあ、白菜が大量に家にあるし。茹でれる旨いもの買って来いって言われたし」

へえ、いいね。私も鍋にしようかな、
そう呟くと彼は「あ、やっぱり夕食は宮沢さんが作ってるんだ。偉いね」と私を褒めた。
少し呟いたときに期待はしていたものの、見事に予想が当たって恐ろしいほど胸が弾んだ。

耐え切れなくなって彼に隠れて目を瞑る。


「あ、もうこんな時間だ」

私が確かめるように振り向くと、彼は手に持っていた懐中時計を急いで
コートのポケットに突っ込んだ。
不可解な行動に眉が顰まる。
彼が観念したようにポケットからまた時計を取り出した。

「……爺くさいでしょ。懐中時計なんて」
「そうかな? 格好良いと思うけど」

彼の大きな手の中にずしりとした存在感を放つそれは、
とても細やかなデザインで、数字のひとつひとつが綺麗に浮き出てぱっと見ただけで今何時か知ることができた。

「腕時計より見やすいんじゃない? もらい物?」
「いや、恥ずかしながら自分で買った。これのためにすっごいバイト頑張ったの。
 俺憧れててさ、懐中時計に」

彼の気持ちはわかった。
私も昔、以前見た絵本の影響で懐中時計に惹かれて、憧れていた。
でもそれは一時のことでそんな思いはすぐさま消え去ってしまっていたけれど。

「俺はしつこくてさ、ずっと諦めきれずに懐中時計欲しがってたんだ」
「私も杣野君の見たらまた欲しくなっちゃったな。」

私の言葉に彼の顔が明るんだ。途端にその場の空気が華やぐ。
頬が自然に緩み、心が和んだ。

「今まで爺くさいとしか言われたことなくて。
 ……だから隠してたんだけど。 そう言って貰えるとすごい嬉しい」

「堂々と使えばいいのに」「持ってるだけで満足だから」
「そっか」「じゃ、俺はそろそろ帰ろうかな。…宮沢さん一人で大丈夫?」

本当は引き止めたかったけれども、
彼女でもない只の隣の席の私がそんな図々しいこと出来るわけなくって、
「勿論」と彼みたいに相手に気を遣わせない言い方を真似して、手を振った。

大きく手を振って、
背を向けたきり一度もこちらを振り向かない彼は、
一段と膜が張り詰められていたような気がした。

「え。今日鍋?」

祖母からの北海道旅行のお土産に貰った鰤に
包丁を入れていた弟の手が、買い物袋を見て止まった。

「と、思ったけど明日にしよっか」
「いや。これも鍋に入れよう。ばあちゃんからのお土産の中に鰤もあったし」
「でもあんた何作るつもりだったの」「海鮮鍋」

弟の包丁を握る手にはまったくの無駄がなく、すとんと大きな白菜が綺麗に割れた。
とんとんとん、と一定のリズムを刻みながら包丁がまな板の上を弾ける。
かちゃかちゃと小気味良い音を立てて食器と食器がぶつかって、
ぽちょんと具が湯を張った鍋の中に。

台所が奏でる音楽は、私の鼓膜を震わせ、お腹を空かせる。

「ばあちゃん、蟹は送ってくれてなかったみたい」
「蟹よりこっちのが美味しかったんじゃないの。
 大体こんなにいっぱい送ってくれたんだから、ケチったわけじゃないだろ。」

表現していない言葉の裏まで読まれて、返す言葉がなかった。
黙っておたまやお皿の準備をする。

エプロンの中で携帯が振動した。
珍しく前の席の男友達からのメールだった。

“今なにしてる?”

ご飯作ってる、と返すと“何作ってるの”と返ってきた。
ああもうまどろっこしい。絶対こんなものより電話の方が効率良い。
そう思いながらも私の指はボタンの上をするする滑る。

“え、鍋?いいな。 ちょっと今からお前ん家来るわ”

“鍋っていっても一般家庭で言う土鍋の中に白菜とか肉を入れてそれを食べる、
 とかいうそういう鍋じゃなくって、私の家の場合は鍋そのもの、陶器を食べてるんだよね。
 だからさ、笠里に家に来られると土鍋の分け前が減るから来ないでくれる?”

“どんな断り方だよ!面倒くさいわ!
 お前ん家行くと、お前の弟にすっごい迷惑そうな顔されるんでやっぱやめとく”

“まだマシだって、舌打ちされたことあるよ、私。”

くだらない会話をだらだらと続けてにやけていると
いつからか部屋中に湯気が満ちていて、手足の冷えがなくなっていた。

「ごめん、水斗。ご飯出来た?」「当たり前」

肉団子の表面がが煮詰まって、少しずつほぐれてきても両親がまだ帰ってこないので、
四人分ある食料から二人を他の皿に移して、弟と一緒に鍋をつついた。

「鶏肉旨え」
「え、うそ。無いよ」「探り箸するなよ。下品だな」
「いや、鍋は探るものでしょ」

ほうほうと暖かい湯気は水蒸気となり、私達の手元を濡らした。
大根にしっかり染み込んだダシの味や、
白菜や鰤のやわらかさは最近食べた料理の中でもっとも印象強いものとなった。
静かに、確実に、鍋の中身は硬さを失っていき、私の体は熱を帯びていった。

彼とご飯が食べられたら、とそっと思う。
そして今向かい側に座っているのが彼だと想定する。
腕をまくって、長い指で箸を握り、額にうっすらと掻いた汗を手の甲で拭う。

どんなに頑張って、目を凝らして目の前の男性を見つめても、やっぱり弟は弟でしかなくて。
家族相手に何をやっているんだ、と我に返って、再び鍋に箸を伸ばした。

「あ、明日人家に連れてくるから、遅く帰ってきて」

白菜を飲み込んでから、意を決したように弟がそう言った。

「良いけど。」「絶対六時半以降に帰ってきて」
「明日の夕食作り、お願いね。それとこれの後片付けも」

私が笑って鍋を指差し席を立っても、弟は珍しく小言のひとつも言わずに黙々と食器を洗った。



今日はなかなか綺麗に髪の毛が纏まったので、珍しく頭のてっぺんに乗せてみた。
いつもは晒さない実は結構自慢の首筋や、すぐ赤く染まる耳が風に当たって痛かった。

窒息死しない程度に強くマフラーを巻き、コートの襟を立てる。


「わ、おそろいだ!」

校舎内でのマフラーの使用は禁止されているため、
靴箱でひとり、マフラーを解いていると後ろから大きな声でそう叫ばれ、驚いて振り向くと同じ髪型をした彼女が居た。

「宮沢さん、首綺麗ー」
「ありがとう。それにしても偶然だね。」「だねー。嬉しいな」

手袋をしていたにも関わらず、外の空気に触れた手は外温以下の冷たさだった。

「今日はね、髪の毛の調子が良くて、思い切ってお団子にしたんだ。」
「あ、あたしもだよ」

違う。やっぱり違う。何処が似てるっていうの。
同じ髪形をしているのに、私達が着ているコートだって、手に持ってるマフラーだって
何処となく似ているのに、私と彼女はまったく違う。

少なくとも私はこんなにも美しく微笑むことなんて出来ない。絶対。

「それにしても昨日は、ありがとうね。」
「ううん。ごめんね、何もなくて。つまらなかったでしょ?」
「全然。」

彼に似た相手に気を使わせない言い方で彼女は私の言葉を否定し、
ワンテンポ置いてから何か思い出したように「あ」と大声を出した。

周りの数名がこちらを振り向く。

「うわ、ごめん、大きい声出しちゃって。あのね、昨日ね」
そう言って彼女は自分のメッセンジャーバッグの中身を探る。

「宮沢さんの家に沢山あったあの写真家の写真集をね、
 杣野君が持ってたから貸そうと思って借りてきたんだけど……ごめん、ないや。
 家に置いてきちゃったみたい。今度で良い? ごめんね」

「ありがとう。わざわざ。昨日金澤さんに言われてからあの写真家気になってたんだ。」
「どういたしまして。 じゃあね。」


彼女と別れた後、私の手はすっかり汗ばんでいた。

「家に置いてきちゃったみたい」

そう洩らしたときの彼女の表情、声のトーン。
苛立ちと優越感の両方を感じることが出来た。というより、感じさせるような言い方だった。

きっと昨日、彼の家で鍋でも食べたのだろう。

「家に置いてきちゃったみたい」

あのときの歪んだ唇。強い眼差し。高くなったトーン。
気づいてる。彼女は確実に気づいている。

大きくなる恐怖心から無理やり目を逸らして教室に入った。


「おはよう」

藍色のカーディガンを羽織った彼が、私の顔を見るなり微笑んでくれた。
そのおかげで恐怖心が萎んだような、膨らんだような気がした。

「あおから、宮沢さんがこの写真家が好きって聞いたから。良かったら」

そういって彼は机の中から一冊の本を取り出した。

「ありがとう。金澤さんがさっき言ってた。杣野君の家に忘れちゃったって。」
「そうそう。人の本棚漁ってこれ見つけて喜んでたくせに忘れちゃってるの」

くすくす思い出し笑いをする彼は、全然いつもと変わらなくて。胸がざわついた。

「昨日、私服見たときも思ったけど、センス良いよね。宮沢さん。」

私に写真集を渡しながら彼が微笑んだ。

「ありがとう」

嬉しいはずなのに、私はこの場から逃げ出したくて堪らなかった。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。

だからいやだ。恋なんてしたくない。
自分が惨めになるばかりで、昔は軽く憧れていたさえ彼女にまで汚い感情しか向けられない。
美しい彼とはかけ離れた自分が、周りからどう映っているのか。そんなことを考える前にまず自分で嫌気がさす。

好きなのに、いや、好きだからこそ、会話したくない。
でも関わりたい。彼女と話している姿を彼が仲良く会話している姿を見たくない。
私だけのもので居て欲しいけど、そんな彼はきっと美しくない。
私に毒されてしまう筈。

そんなことを考えていたら気持ちに締まりがつかなくなって、彼に心配された。

「宮沢さん?」

きっと彼は、私の目の淵にうっすら溜まった涙に気づいている。
私のこの小さい瞳を見詰めている。

恥ずかしくなって、
前髪をいじるふりをしながらなるべく彼に顔を見られないように、そして彼の顔を見ないようにした。
彼はそんな私に気を遣ったのか、私が面倒くさくなったのか、椅子に座りなおして前を向いた。

私も席に着いて彼から受け取った写真集を眺める。
すると、昨日私のメールボックスの受信箱を埋め尽くした高波灯也が、無遠慮に私の手元を覗き込んだ。

「鍋の写真じゃん。」

ちょうど、きれいな闇をバックに湯気のたつ鍋を中心に置いた食卓の写真を見ていたのだ。

「やっぱ色合いとかで味も決まるわけ?茶色は少し苦いとか、灰色の鍋は齧りにくいとか。」
「やめてよ。あたしが土鍋食べてること、ほかの人には言ってないんだから」

そういうと彼は吹き出して、「意味がわからん」を連発した。

「そういえば宮沢って料理と写真のイメージある。
 料理作りながら、美味しそうなところを写真に撮ってそう。」

時々そういうことをしていたので、言い当てられて吃驚していると勝ち誇った顔で高波が笑った。

「んで、その写真を後で見てにやにやしてるんだろ。」
「しないよ、そんなこと」

私はそんなに性格どおりのイメージを醸し出しているのだろうか。

「にしても宮沢料理うまいよなあ。なんでそういう高校選択しなかったの?」
「趣味の程度だから。自分の腕で食べていけるとは思わないし」
「いやいや、調理実習のとかさ、宮沢の料理厭味みたいにうまいから俺は周りが可哀相になるよ」

彼の言葉に肩がびくりと揺れた。
でも彼は自分が最高に私を傷つける言葉を言い放ったなんて気づいてもいなくて、可笑しそうに一人で笑っている。

気づいたときには、すとん、と心地よい音がして手に持っていたはずの写真集が床に横たわっていた。
無言で杣野君がそれを拾う。

「ご、ごめん。」

彼は静かに首を振り、写真集を手渡す。
受け取った写真集のひとつの角が潰れてしまっていた。

急いで謝罪をすると彼は再び静かに首を振り、私を制した。

「宮沢さん落ちついて。大丈夫。そこ、元からへこんでた部分だから。」
「ううん。借りたとき綺麗だった。……本当ごめん」
「ほんとに大丈夫だから、ね。」

そういって遠慮がちに彼は私の顔を覗き込む。
そのせいで余計に顔が上げられなくなった。

「宮沢気にしすぎ。気にしないでいいって言われてんじゃん。
 大体杣野はそんな風に角が潰れたぐらいでちまちま言わねえよ。」

無遠慮な高波の声に、とっさに強い口調で言い返す。

「だってすごい綺麗だよ。新品じゃないのにこんな綺麗な状態なのは大事にしてるからだよ。」

私はそっと彼の写真集を撫ぜる。
彼の気配を含んだそれは、まるで彼を撫でているかのような錯覚を覚えさせてくれた。
どきどきする。

「ごめん」
「大丈夫なんだけどなー」

困ったように頭を掻く彼は助けを求めるように高波を見た。
ああ、また困らせてしまった。どうやったらうまいところで切り上げられるんだろう。
彼のやさしさをすんなりと受け入れて平気な顔をするなんて考えられないし。

「んじゃ、宮沢の教科書の角でも潰せばいいじゃん」


高波が杣野君の視線に気づいたのか、そう助言した。
私と彼は苦笑した。

「とにかく、大丈夫だから」
「ほんっとにごめんね」「気にしないで」


 弟との約束を守るため、放課後、私は学校をうろついた。
人の気配がうっすらとしか残っていない廊下を歩くのは気分が良い。
外を眺めると五時とは思えないほど真っ暗だった。

汚い窓を開いて身を乗り出すと真っ白な息が上へと舞い上がる。
自分の息がやがて雲になるような気がしてじいっと見つめるが、結局は途中で消えてしまう。
それがなんだか悔しくてまた息を吐く。

その行為を何度か繰り返していると後ろから声が掛けられた。

「あお、なにしてんの」

私が振り返る間もなく、後ろから抱きすくめられる。
え、と私が動転するより早く、彼が驚きながら体を離した。

「ごめん!」

真っ赤な顔をした彼は俯いて小さな声で「……あおと間違えた」と付け足す。

「今日、髪型同じだったもんね」

今にも飛び出しそうな心臓をなんとか喉元で押さえ込みながらそう答える。
彼はほっとしたように笑った。

「っと、あお知らない?」「ごめん。わかんない。」
「そっか。暗いから帰るときは気をつけて」「うん、ありがとう。今日はごめんね」
「だから良いって。……じゃあね」

彼がそっと手を振る。私も急いで振り返した。

少しだけしか触れていないのに彼の体温の余韻がまだ残っていて、私はその場に蹲った。
見つけた膜の剥がれ目はあまりにも緩かった。今までの葛藤が馬鹿みたいに思えるほど。


「宮沢?」
発するまでに躊躇されたであろうと思われる声に名前を呼ばれて顔を上げると、
汗臭そうな体操服を着た高波が居た。
後ろの方に群がっている同じく臭そうな彼の友人たちは興味深々で互いの肩越しから私を覗き込む。

「どうした?」と尋ねる高波の声に
「腹痛い?」「あ、宮沢シェフだ。」「足でも挫いたか?」という自由な声が重なる。

彼らは全員同級生だった。
それに気づいた私は安心しながら急いで立ち上がって「なんもない」と手を振る。

「さっき杣野が探してたぞ」と高波の隣に居る背の高い男子がそう言った。
途端、「宮沢じゃなくて金澤だろ。あいつの彼女の」と後ろや横からどつかれる。

「いや、金澤は今日早退してたから。保健室で金澤の荷物持った杣野に会ったし。」

とどつかれた彼、東通君が冷静な声でそういうと彼をたたいていたいくつもの手が同時に止んだ。
それと同時に私の心臓も止まった気がした。

あおなにしてるの。あおとまちがえた。っと、あおしらない?
彼の言葉を鮮明に覚えている自分にたじろぐ。

話はそこでほかの話題に飛んだため、彼が彼女の居場所を私に聞いたことは黙っておくことにした。

「つか宮沢なんでこんな時間まで居るんだよ」
「弟が家に人、多分彼女を連れてくるらしいから六時半まで家に帰っちゃいけないの」

私がそういうと彼らは楽しそうに盛り上がってから、挨拶をして帰ってしまった。



 「き、昨日、金澤さんが早退したって聞いたけど、大丈夫なの?」

私がそう尋ねた瞬間、彼はこの世が終わったかのような顔ををした。
打ちのめされた顔とはまさにこんな顔だろう。

「うん、大丈夫だと思う。」

彼はいつもよりうわずった声でそう言って、笑った。
それなら良かった、と言ってわたしも笑う。

駄目だ。折角ここまで踏み切ったのに。
核心に触れられない。

彼の膜はもう完璧に外れた。
二度と張らせたりなんかしない。


「ごめん、昨日、うそついた。」

彼が観念したように詫びる。私は動揺した。
もしかしたら、と昨夜から抱いている淡い期待が膨らむ。
駄目だ、心臓が痛い。

「あおと間違ったのが恥ずかしくて。
 あんなことした後に、あおが早退したってこと思い出して。
 ……宮沢さんは早退したこと知らないだろう思って嘘つきました。すいません」

彼は卑怯だ。
私が彼の嘘を見破っていると知っていながらも嘘をつく。

責められない。問いただせない。
こんなはっきりとした拒絶を無視できない。

悔しさをなんとか誤魔化そうと、最後に足掻いてみる。

「杣野君、……ほかにはもう、私に言うことない?」

なんてうぬぼれた質問だろう。
普段の私なら決して口にしない質問だ。

それでも口に出来たのは、絶対的な自信があったからだ。
彼の声で、期待は確信となった。彼はそれにも気づいている。


「言えない」

掠れたその声の持ち主は、申し訳なさそうに目を伏せて自分の席から離れた。


酷い男を好きになってしまったものだ。
それが分かったのに、それでも尚、長く話せたことが、彼の気持ちが、
泣きそうなくらい嬉しいなんて。
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